44歳を迎えても表舞台に復帰しない、シャルレーヌ公妃の謎。

Culture 2022.01.27

モナコ大公アルベール2世の妻、シャルレーヌ公妃はいまもモナコ外の施設で療養中だ。それに先立つ9ヶ月もの不在期間中、すでにその理由を巡って噂が絶えなかった。今年2022年1月25日に44歳を迎えた公妃はそもそもこの結婚生活をどう思っているのだろうか。

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1999年9月1日、ヨハネスブルグでの水泳選手時代のシャルレーヌ公妃。photo: Getty Images

2021年6月25日のことだった。「モナコ公国のシャルレーヌ公妃殿下は、5月に深刻な耳鼻咽喉科感染症を患い、複雑な手術を数回受けなければなりませんでした」という公式声明が報道機関に向けて発表された。3月から南アフリカ滞在中のシャルレーヌ公妃が7月2日の結婚10周年記念日にモナコに戻ってこられないことを正当化するような内容だ。以来、事態はなかなか改善せず、シャルレーヌ公妃は手術をさらに数回受け(詳細は不明)、一度は滞在先の南アフリカのダーバンで体調を崩し、クワズールー・ナタールにあるネットケア・アルベリト病院に救急搬送された

8月末にはアルベール2世とふたりの子どもたち、ジャック公子とガブリエラ公女がシャルレーヌ公妃の元を訪れ、家族は再会する。だがその時の写真や、その後のズールー族のミスズル王との面会時の写真を見てもシャルレーヌ公妃はやせ細り、疲れてうつろな表情をしていた。こうしたことからさまざまな憶測が流れ、なかには荒唐無稽な話もあった。フランスのヴォワシ誌によれば、シャルレーヌ公妃は夫と深刻な不仲状態にあり、某「関係者」の話として「誰もが、もう公妃は戻ってこないのではないかと思い始めている」とのことだった。イギリスのデイリーメール紙はグリマルディ一族にかけられた呪いについて報じた。それによれば13世紀、当時のグリマルディ家当主、レーニエ1世にかどわかされたフランドル地方の娘が復讐のために呪いをかけ、そのせいで一族の子孫は決して結婚で幸せになれないというのだ。7月末になると王室専門ジャーナリストのステファン・ベルンがフランスのパリ・マッチ誌に寄稿したが、その記事のタイトルはずばり、「シャルレーヌ公妃とアルベール2世は破局寸前か?」というものだった。

 

 

その後、シャルレーヌ公妃は9ヶ月ぶりにモナコに戻ってきた。2021年11月8日、一家4人の写真3枚がモナコ公宮によりSNS投稿される。シャルレーヌ公妃の顔色は相変わらず冴えなかったが、事態は良い方向に向かっているように思われた。しかしながらその10日後、期待はもろくも崩れた。アルベール2世は、2021年の11月17日と18日に地元のモナコマタン紙、およびアメリカのピープル誌の取材に応じ、シャルレーヌ公妃が専門施設に入院して「治療」を受けていることを明らかにした。アルベール2世によるとこれは本人と決めたことだそうだ。「妻の弟たちや義理の妹にも集まってもらいました。妻はすでに決心を固めていました。私たちはただ、本人の口からみんなの前で確認してもらいたかったのです。確かにそう望んでいました。休息を取り、医学的なサポートのもとで本格的な治療を受けることが最良の方法であることが本人にもわかっていたのです」

またアルベール2世は、「守秘義務の関係でモナコの外の施設でなければならなかった」とも語った。ピープル誌の取材ではこんな発言もしている。「本人自ら助けが必要なことに気付いたのです。治療が必要なことを当人に無理やり説得することはできません。自分で気づくしかないのです」

シャルレーヌ公妃の精神状態を危ぶませるような発言だが、確かにこれまでの公妃としての生活の中に、幾つかの危険な兆候はあった。

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呪われた結婚

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2011年7月2日、アルベール2世との結婚式で涙ぐむシャルレーヌ公妃。photo: Abaca

どんな兆候があったのかを辿るには、南アフリカの水泳チャンピオンだったシャルレーヌ・ウィットストックがモナコ公国の王位継承者のアルベール2世と33歳で結婚した時まで遡らなくてはならないだろう。母国で人気アスリートだった彼女は、マスコミから「頭脳派ブロンド」と呼ばれていた。一方、20歳年上の彼は、長い間独身を貫いてきた。

2011年6月末、待ち望まれていたふたりの結婚式の直前に、花嫁が飛行機で帰国を試みたことをレクスプレス誌のウェブサイトがスクープした。記事によれば、アルベール2世の親族の要請により、警査がニース空港で止めたそうだ。この報道に対してアルベール2世の弁護士ティエリー・ラコストがすぐに反論し、「マスコミのでっち上げ」を主張したものの、居心地が悪くて逃亡したプリンセスのイメージが定着してしまった。「多くの人がふたりはお見合い結婚なのか、という印象を持ったのは事実です」と、フィリップ・デロルムは当時を振り返る。フィリップ・デロルムは君主制を専門とする歴史学者で、『グリマルディ家とモナコの最も美しい時間』(ラ・ボワット・ド・パンドール社刊)の著者でもある。華々しく報道された結婚当日、シャルレーヌがサント=ドゥボート礼拝堂でブーケを置いた後、涙を流したこともこの結婚に疑問を抱く人々の記憶に残った。

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グレース・ケリーという型

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結婚に先立つ数週間前のアルベール2世とシャルレーヌ・ウィットストック、2011年1月1日、amfARガラにて。photo: Abaca

それ以来、涙を流すことも警察の介入もなくなったが、シャルレーヌ公妃はよく憂鬱な表情を浮かべ、不在がちだった。「シャルレーヌ公妃がなるべく堅苦しい席を避けていることは何年も前から周知のことだ。レーニエ公がグレース・ケリーに贈った、プロヴァンス地方のロック・アジェルの隠れ家や、友人から借りたコルシカ島の家に行ったり、トルコで休暇を過ごしている。しかもモナコにいるときは宮殿ではなく、ステファニー王女がかつて住んでいたアパルトマン、ヴィジタシオン広場のチョコレートショップの上の住居を使っている」と、パリ・マッチ誌にステファン・ベルンは書いている。そうすることが自分を保ち、型にはまることを拒否する方法であったのだろうか。きらびやかな銀の皿に盛られて差し出された型の名はグレース・ケリー。シャルレーヌ公妃は確かにグレース・ケリーによく似ている。同じようにゲルマン系で、同じように背が高くて彫りが深く、ブロンドヘアに抜けるような白い肌だ。「アルベールは母親似の妻を娶り、シャルレーヌは自分に押し付けられたこの“グレース・ケリー”役に大変な違和感を感じたのでしょう。カール・マルクスが言ったように、歴史は繰り返します。最初は悲劇として、次は茶番として」とフィリップ・デロルムは指摘した。

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反逆のプリンセス

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シャルレーヌ公妃は、公宮でのクリスマスプレゼント交換の時にパンクなヘアスタイルで登場した。(2020年12月16日) photo: Abaca

シャルレーヌ公妃は必死だったに違いない。期待される役割を果たそうと努力はした。プリンセスらしい格好に改め、ちょっとした美容整形もした。しかし、型にひびが入るのは早かった。服装も段々と大胆になり、ロックなテイストが混じるようになった。2020年のツール・ド・フランスではネオンイエローの革ジャン姿だったり、同年のクリスマスにはベレー帽に黒の革手袋で登場したり......ヘアスタイルもロング、ショート、プラチナブロンド、短い前髪とだんだん踏み込んだものになった。最後に話題になったヘアスタイルはモヒカンをイメージした「ハーフホーク」で、片側はマッシュルームカット、もう片側は刈り上げという、王族としては前代未聞の大胆なスタイルだった。

 

 

夫が大統領だった頃のメラニア・トランプのように、シャルレーヌ公妃は自分なりに自己表現しようとしている。迷彩服を着たり(夫との最近の写真で着用)民族衣装を着たり。でも、それはいつまで続くのだろう? シャルレーヌ公妃は我々に何を伝えたいのか? 一体何と引き換えにシャルレーヌ・ウィストックはこの役を引き受けたのだろう? 結局は好きになれなかったこの役を。一体何が望みなのだろうか? あるいは何を望まないのだろうか? そんな疑問にモナコの人々をはじめとしてみんなが頭を悩ませている。

*2021年11月22日に掲載した記事に追記、再編集しています。

text: Marion Galy-Ramounot (madame.lefigaro.fr)

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