ジェーン・バーキンが持つ、その天賦の魅力とは?

Culture 2023.07.23

何年も続いた闘病生活でけなげに病気に立ち向かい、最後まで前向きに生きたジェーン・バーキン。天賦の魅力で女優や歌手として60年以上活躍し、はかなくも力強い、気品あるシックさを体現した。

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パリ7区の自宅で撮影に臨むジェーン・バーキン。(フランス、2005年7月8日) photography: Getty Images

映画に初めて出演した頃からジェーン・バーキンは時代の申し子だった。それは60年代のロンドンのこと。“スウィンギング・ロンドン”を代表する映画の『ナック』、そして『欲望』に出演した頃のジェーン・バーキンはまさしく時代を体現するいまどきの女の子だった。『欲望』に出た彼女に世間は注目した。しかも、これと前後して19歳の彼女はイギリス人のジョン・バリーと結婚している。ジェームズ・ボンドのテーマなどを手掛けた世界的に有名な映画音楽の作曲家だ。ふたりの間には、娘ケイトが生まれた。ジェーンの3人の娘のうちの長女である。

1960年代末にセルジュ・ゲンズブールと出会ったジェーンの生は新たな展開を迎えた。1968年、映画『スローガン』の撮影現場でふたりは知り合い、翌年、世界的ヒット曲となった「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」のデュエット曲で仲が深まる。この曲はもともとゲンズブールがブリジット・バルドーとレコーディングしたものだったが、あまりに過激な内容にバルドーがおじけづいて辞退、ジェーン・バーキンの登場となった。以後、ゲンズブールとジェーンはまるで恋愛クロニクルのようにデュエット曲を次々に発表、オシャレでセクシーなポップスのジャンルを確立した。

ふたりの関係が恋愛、芸術の両面で最初の頂点を迎えるのは、ゲンズブールのアルバム『メロディ・ネルソンの物語』においてである。1971年のこのアルバムはジャケットにジェーンの写真を使用し、ジェーンもボーカルでちょっぴり参加している。アルバムのすべての曲はジェーンをイメージして書かれたもので、リリースされた年の売れ行きはあまりパッとしなかったが、のちにフレンチポップの名作アルバムのひとつとなった。同年、ジェーンは娘のシャルロットを出産した。

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グラマラスなアルバム

1970年代を通じてこの伝説的なカップルはカルチャーの中心にいた。ゲンズブールの曲の特徴として、緻密に作られているのにテレビの音楽番組にもなじむ軽やかさがある。注目すべき年はふたつあった。まず1976年、セルジュ・ゲンズブールが監督をした映画『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』にジェーン・バーキンが主演した年。そして1978年、ジェーンのためにゲンズブールがアルバム『想い出のロックン・ローラー』を製作した年だ。このアルバムはグラマラスな哀愁やエロティシズムを感じさせ、音楽ジャンルを軽やかに飛び越えた。

ここに至り、バーキンらしさが確立する。彼女のフランス語はいつだって英語訛りで、それが彼女の魅力なのだということ。彼女の歌声には彼女の本質がこめられているということ。ルーツにこだわらないジェーンは人生のはざまにするっと入りこむ。映画『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』ではゲイの男性と仲良くなる女性を演じた。そしてアルバム表題曲「想い出のロックン・ローラー」を歌うジェーン・バーキンは過ぎ去った60年代を現代によみがえらせる。

彼女には複数の世界を行き来し、相反するものを共存させる才があった。それがジェーンの天賦の才能だったのだろう。ジェーンと別れた後のゲンズブールが失ったものはこれだったのだろうか。彼女が去ってから、ゲンズブールの芸術面はなにかが変質した。いずれにせよゲンズブールは別れたのちも、ジェーンのための仕事をつづけた。1983年、彼はジェーン・バーキンの、ひいてはセルジュ・ゲンズブールの最高傑作となるアルバム『バビロンの妖精』を制作する。そこにはふたりの関係を暗示させるタイトルが並んでいる。「虹の彼方」(原題はFuir le Bonheur Qu'il ne se sauve=幸せを逃したくないから、幸せから逃げる)や「さよならは早すぎる」(原題はEn rire de peur d'être obligée d'en parler=話さなくてはならないことを恐れて笑う)など。さらに「国際電報」、「シック」の曲はゲンズブール自身が亡くなる前の自分のコンサートでも取りあげている。深いメランコリーのバラード「バビロンの妖精」はジェーンが歌いながら別れの苦しみに涙を流しているようにも聞こえ、悲しみや苦しみの表現の中にも気品を感じさせた。

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「昔のようにキスして」

このアルバムを作っていた頃、ジェーン・バーキンは映画監督のジャック・ドワイヨンと暮らしていた。ふたりの間には娘のルーが生まれる。ゲンズブールはふたりの家にしょっちゅう出入りし、ジェーンの人生と関わることをやめなかった。

1990年代初頭にゲンズブールが亡くなった後、ジェーンは彼が遺したものを守ろうと、彼の作品を歌い続けながらさらに発展させる道を探った。そんな思いが結実したのがエティエンヌ・ダオをプロデューサーに迎えて制作した2020年のアルバム『Oh Pardon Tu Dormais』だ。まるでこれが最後とでもいうようにジェーンは恐ろしいほど重々しく、そして時に軽やかに歌っている。「Ghosts」という曲を珍しく英語で歌っているほか、本来の自分や年齢を忘れたかのように辛辣なユーモアの「La Sentinelle」も取りあげた。“恋人たちにはうんざり/私はただの人になってしまった/昔のようにキスして/そうすれば、もうあなたを困らせない”。

病に倒れてからもジェーンは歌も演技もコンサートも諦めなかった。2018年9月24日のパフォーマンスは近年で最高の出来だったかもしれない。それはパリのルパレス劇場で、グッチのファッションショーがおこなわれた時のことだった。大勢の招待客がいるなかでホールの中央に突然、スポットライトが当たった。するとスーツ姿の人物が立ち上がった。左手をポケットに入れ、右手にマイクを持っている。ジェーンだった。彼女は歌いはじめた。たったひとりで。伴奏はピアノ、そしてどこからか漂ってくるストリングスのみ。歌は「バビロンの妖精」を巧みにアレンジしたものだった。「あなたは探している、スタジオを/それとモンローの足跡を/ラインストーンとストレス/神々と女神/ロサンゼルスから/ベイビー・アローン・イン・バビロン/波に溺れる/光の/チリの/かりそめの星クズの/あなたは永遠を夢見る/残念ながらあなたは見つけるだろう」

劇場のバルコニーから、娘のルー・ドワイヨンが彼女を見つめ、微笑む。弱々しくも最高に優美なジェーンは病を克服してここに立っていたのだった。5年後の2023年7月16日、ジェーン・バーキンは永遠の夢を求めて旅立った。

 

 

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text: Joseph Ghosn (madame.lefigaro.fr)

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