最果タヒ
詩人
どんなコスメを選び、どんなふうに自分をケアするか。ビューティだってファッション同様、センスが問われる時代。
フィガロでは、美容のプロフェッショナルと、おしゃれで美容愛のある女性クリエイターたち13人の"ボーテスター"とともに、心地よいライフスタイルビューティを提案します。
詩人・小説家・エッセイストの最果タヒが綴る、生きることと美しさの繋がりとは――。
詩人
2004年より詩作を始め、07年、第一詩集で中原中也賞、15年に現代詩花椿賞などを受賞。近刊に詩集『不死身のつもりの流れ星』(PARCO出版刊)、最新エッセイ集『恋できみが死なない理由』(河出書房新社刊)ほか、著書多数。
@saihatetahi http://tahi.jp
「センスがない」とか言われると、世界が主観的に自分を否定してくるようなよくわからない恐怖がある。センスの基準は時期によって変わるし、根拠がよく見えないし、数値化もできない。それなのに根本的なところを否定された気がして落ち込むんだ。
肌や瞳のこと、表情がどれぐらい生きていて、私が世界の一部ではなく、一人の人間として誰かに見えているかということが、最近はよく気になる。宝塚の舞台を多く見るようになって、人が人としてそこにいることの強さみたいなものを知ったからかもしれない。表情も肌、瞳も生きている。そのことに何よりも自分が鈍感だ。生きようとしなくても生きていける体で、どれぐらい「生きる」をできているだろう。それは、簡単に言えば「堂々とする」ことなのかもしれない。結局世界の一部として自分を諦めるか、世界の異物として生きていくかのどちらかで、美しいと思う肌や表情を諦めないのは後者であるために必要なことなのかもしれない。
世界が言う「センス」という言葉は、生きている、勝手にどんどん姿を変え、根拠もなく蠢いている。それらに相対するとき、私はその言葉に負けないぐらい、「生き物」でなくてはならず、どこまでも堂々と、自らがそこにいることを、きらめいた出来事だと打ち出し続けなければならないのかも。綺麗になりたいより、ただ生きることを全身でやってみたいと思うとき、肌も瞳も美しくなる。私は最近そう信じています。